安部首相が最近「政治は結果だから・・・」と演説している姿を見て、最近の心の中のモヤモヤの原因が少し分かった気がした。
プロフェッショナルな職業である以上、我々鍼灸師や学校教育関係者には「結果」が求められる。
臨床例なら不妊治療に悩む患者さんの妊娠に貢献することや、教育現場なら国家試験合格率100%を出すこと。
「結果」が出た場合には「有能」なヒトになれ、出なければ「無能」と思われる。
少なくとも、上記のような考え方の人と話をしていると、そんな風に感じる。
もっと直接的に表現すれば、「結果」が出なかったヒトを下に見ている。
私は「有能」と思われたくて、ある意味一生懸命やってきた気がする。
でも、「結果」が出たときに素直に喜べなかったのは、多分「自分は無能ではない!」と証明したいという欲求よりも
自分のやりたいこと、自分が心地良いと感じる「経過」を無視していたから。
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10年前の甲子園の優勝投手、覚えていますか?
多分ほとんどの人は忘れている。私も忘れた。
でも、多分その投手は優勝という「結果」より、優勝に向かって努力してきた「経過」を糧にして、或いはプロとして、或
いはアマとして、或いは普通のサラリーマンとして頑張っているんじゃないかな。
私の師匠はご自身が不妊症に悩んだ経過をもち、結果として不妊症患者さんの治療を得意とする鍼灸を築き上げて
いる。
私は不妊症で授かることができなかったという「結果」よりも、今、数多くの患者さんのお役にたとうとする師匠を心から
尊敬している。そしてその経過を、師匠は楽しんでいるように見える。
「結果」が全てではない。と言ったら月並みだけれど、今という「経過」を楽しんだり、悲しんだりしながら、「結果」が出
れば最高だと思う。
そして臨床家としても、教育者としても、「結果」はもちろん「経過」を評価できる人間でありたい。
そう考えたら少し心のモヤモヤが、とれた気がした。
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